令和7年7月4日 川口市退職校長会文学散歩の会 下見 渋谷周辺

10:30 に渋谷ひかりえ 洗足行きバス停で集合し、①金王八幡宮→➁氷川神社⇒➂塙保己一⇒➂国学院大学食堂⇒④国学院大学博物館・・バスで渋谷駅へのコース 15:00

①陀和気命(ほんだわけのみこと)]応神天皇は第15代天皇で、八幡大神として全国の八幡社に祀られています。別名は品陀和気命(ほんだわけのみこと)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも称され、欽明天皇32年(571)に初めて九州宇佐の地にご示現になられました。皇室は、宇佐八幡宮や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ、第二の宗廟として八幡大神を崇敬しました。、殊に清和源氏は八幡大神を氏神として崇敬し、日本各地に勧請しました。源義家が石清水八幡宮で元服し、自らを八幡太郎義家と名乗ったことは有名です。八幡大神は、「文武の神」「平和の神」「母子の神」「子授・安産・子育ての神」として古くから信仰されておりますが、当八幡宮ではこの他に「福徳開運、厄除、良縁の神」特に「渡航交通安全の神」として、御神徳の高い神と崇められています当八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座いたしました。

桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による長元の乱(1028-1031)において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(武甲山)に納め八幡宮と崇め奉りました。武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役(1083-1087)の源義家の軍に300騎余を従え一番で参向し、仙北金沢の柵(秋田県仙北郡金沢)を攻略しました。
その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の日月旗を乞い求め、月旗をもってこの地に八幡宮を勧請しました。重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれています。渋谷城は、東に鎌倉街道(現 八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数箇所に湧水があるという好条件を備えていました。しかし、大永4年(1524)1月13日に起きた、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現 品川区高輪付近)で、渋谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。現在、境内に渋谷城砦の石が保存されています。渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので、当八幡宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められています。当八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称しておりましたが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。王丸王丸渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三重家の子で、永治元年(1141)8月15日に生まれました。重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせました。続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。そして金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになりました。当八幡宮に伝わる「毒蛇長太刀」は金王丸が所持していたもので、長田の館の奮戦で「鉾先に向かいその刃風に触れる者生きて帰る者なし、鰐口は遁れるとも毒蛇の口は遁れ難し」と言ったことにより名付けられました。当八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。(写真)渋谷氏の後裔は全国各地に連綿と続いておりますが、明治の元勲東郷平八郎元帥も渋谷氏子孫の一人です。金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で特別開帳されます。

 渋谷氷川神社 創始は非常に古く、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲の相撲場の跡がある。➂塙保己一史料館

塙保己一は江戸時代後期に活躍した盲目の学者です。驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従」の編纂を成し遂げました。また、国学の研究の場として「和学講談所」を創設し多くの弟子を育てました。塙保己一は盲目の身で国家的大事業を成し遂げただけでなく目の不自由な仲間のことを忘れず、生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために力を注ぎました。④ 国学院大学食堂 ⑤当館は、日本文化の講究に必要な文化財を収集・保存し、学術的な研究成果を一般に公開するとともに、広く学内外の研究教育活動に資することを目的として設置された大学博物館です。その淵源は、昭和3(1928)年創立の考古学陳列室(後の考古学資料室・考古学資料館)と、昭和38(1963)年創立の神道学資料室(後の神道資料展示室・神道資料館)にあり、両組織を統合した学術資料館や、伝統文化リサーチセンター資料館の設置を経て、平成25(2013)年に國學院大學博物館が発足しました。常展では、校史・学術資産研究センターの所管資料を交えながら大学の歩みを辿り、考古学から見た日本列島の歴史を通観した上で、神道と日本文化に対する理解を深めていくことができます。また、論文形式に拠らない研究発表である特別展・企画展や、各種の教育普及事業、博物館連携事業などを通して、社会に開かれた大学の窓口としての役割も担っています。来年の文学散歩の候補地で、この中から行く場所を決めて行きたいと考えています。

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